今から1200年余り昔、東国の男たちは大和朝廷の命を受け、防人(さきもり)として
遠い北九州の地へ出かけて行きました。新幹線がある世の中ではありません。妻子と
別れ、幾日も幾十日も辛い旅をして大阪の難波に集まり、そこから舟で大宰府へ向かった
ということです。
そのころ、武蔵国豊島郡に、宇遅部黒女(うじべのくろめ)という女性が住んでいました。
ある日、彼女の夫、椋椅部荒虫(くらはしべのあらむし)も、防人として召されることに
なりました。黒女は、あとに残される寂しさより、辛い旅をしなければならない夫の身を
案じて、心が痛みました。
「そうだ、せめて、あの馬に乗って行ってもらいましょう」
たった一頭しかいない馬を旅に出せば、彼女は夫の留守を女手ひとつで農作業をしなければ
ならなくなります。でも、山を越え谷を渡って遠くへ行かなくてはならない夫には、どうしても馬に乗って
行ってもらわなければ・・・。
ところが、いよいよ出発の朝、腹いっぱい草を食べさせてやろうと馬小屋から引き出したのが
裏目に出たのです。いつもは家のまわりで草を食べている馬が、手綱をつけたまま、どこかへ逃げて行ってしまい
ました。
「アカよお−−−」
半分泣き声でよびながら探しまわりましたが、あたりは一面のすすき原。馬の姿などどこにも
見当たりません。
「いいよ、いいよ。わしは歩いて行くから。もう出かけないと、多摩の横山を越えるのが夜に
なってしまう。それより、留守をしっかり頼んだよ」
別れのことばをのべて、夫は、すすきの中の細い道をふみわけながら、どんどん遠ざかって
行きました。
黒女は、その後ろ姿を見つめながら、悲しくなってうたいました。
赤駒を山野に放(はか)し捕りかにて多磨の横山徒(かし)ゆか遣らむ
(万葉集巻二十)
「徒ゆか遣らむ」とは、「歩いて行かせねばならないのか」という意味です。「放し」「捕り
かにて」など、東国なまり そのままで うたった この歌からは、黒女の深い嘆きがじかに伝わってくるように
思われます。
<以下、省略>